2009年07月02日

病気や地獄の苦しみから救われた事例や頭痛が治った体験談

病気や地獄の苦しみから救われた事例や頭痛が治った体験談が載っています。

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2009年04月14日

感冒とは何か

岡田茂吉111 019_0001.jpg感冒とは何か

『結核の正体』昭和18(1943)年11月23日発行

 吾人が社会生活をする上において、風邪を引かぬようにする事の可

能であるや否やをまず考うべきである。恐らくこれは絶対不可能であ

ろう。何となれば、風邪を引くという事は寒い思いをするためとされ




ている。ゆえに就寝の際寝衣(ねまき)を着替える事、起床の際衣服

に着更える事、入浴の場合または降雨や寒風の際の外出等々はいずれ

も風邪引きの機会ならざるはないであろうから、かような機会を一日

といえども全く避ける事は何人といえども至難であろう。

 これについて私は、世人のあまり気付かない点を説いてみるのであ

る。それは実際上、必ずしも寒い思いをしても風邪を引かない場合も

あり、また風邪を引く場合もある事である。それはいかなる訳かとい

うと、寒い思いをしても風邪を引かないのは全然熱のない時である

が、寒い思いをして風邪を引くのは、実は微熱がある時である。その

理由はこうである。微熱があって風邪を引くという場合は、実は風邪

を引きかけている時、すなわちその前駆としての微熱であるから、そ

の場合寒い思いをしてもしなくても風邪を引く事になっているのであ

る。また特に微熱のある場合は、寒い思いをしなくとも悪寒があるか

ら、どこにいても、厚着をしても非常に寒いのである。

 しかしながら、ここに特に知っておかねばならない事がある。それ

は気候がかわり、寒気に触れる場合、その寒気に順応すべく自然浄化

作用が発生する。そのための感冒もあるが、これは予防は不可能であ

る。

 以上のごとき理由を考うる時、風邪に罹らないようにする事は、絶

対不可能である事が知らるるのである。従って、風邪を引かぬように

注意するなどという事は出来ない相談で、なんらの意味をなさないば

かりか、むしろ神経的になるという悪影響さえこうむる訳である。私

は思う。およそ世の中に注意によって風邪を引かぬように出来得る人

が一人でもありやという事である。

 そもそも、感冒とはいかなるものであるか。医学においては今もっ

て原因は不明とされている。しかし私は、私の見地から概略説明して

みよう。まず人間の健康及び不健康とはいかなる原因によるかという

と、それは血液の純不純によるのである。すなわち健康とは浄血の持

主であり不健康とは濁血の持主である。しかるに幸いなるかな、濁血

者といえども人体は不断に浄化作用が行われつつあるから、その結果

として血液中の汚濁分子は一定の局所に集溜凝結する。すなわちさき

に説いたごとき第一浄化作用であり、次で第二浄化作用が起こり、凝

毒素の排除作用が始まる。これを称して感冒というのである。そう

して発熱によって凝結毒素が溶解し、液体化し、喀痰となるが、喀痰

は一旦肺臓内に滞溜する、それを咳嗽というポンプ作用によって吸出

排泄する、この理によって、感冒とは最も簡単なる浄化作用にして、

これあるによって濁血者も浄血者となり、健康は増進さるるのであ

る。ゆえに結核防止の第一条件としては出来るだけ感冒に罹るように

する事であるに拘わらず、右の理に不明である医学は、反って感冒を

悪化作用と誤解し、極力浄化抑止をするのである。この理によって、

結核蔓延の主なる原因としては、感冒に罹らぬようにしたり、せっか

く感冒に罹っても、薬剤その他の方法をもって浄化作用停止を行う。

そのためである事を知らねばならないのである。

 ゆえに、感冒とは、神が人間に与えた大なる恩恵であると共に、自

然的生理作用ともいえるのである。
タグ:風邪
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寒冒

岡田茂吉111 019_0001.jpg寒冒

未発表『文明の創造』昭和27(1952)年執筆

 いよいよこれから病気についての解説であるが、現代医学の解釈

は、人体を単なる物質と見做(みな)して、唯物療法を進歩させて来た

医学は、どの点に最も欠陥があるかを、順を逐うて書いてみるが、そ

れについてはまず、実際の病気を取上げて説明してみるのが、最も判

り易いからそういう事にする。

 まず、人間として、何人も経験しない者のない病としては寒〔感〕

冒であろう。ところが寒冒の原因は医学では今もって不明とされてお

り、近来僅かに発見されたのが、ウイルスによる空気伝染とか、アレ

ルギー性によるとか言われているくらいで、吾らからみれば問題とす

るには足りない稚説である。この説も近き将来無意味とされる事は間

違いあるまい。

 そもそも、人間は先天的に種々なる毒素を保有している事は医学で

も認めている。例えば天然痘、痳疹(はしか)、百日咳等は元より未

知の毒素も色々あるであろう。ところでそれら毒素は自然生理作用が

発生し、外部へ排泄されようとする、これを吾らの方では浄化作用と

言う。そうして毒素は、最初一旦人体の各局部に集溜する。その場合

神経を使うところ程多く集まる、人間が最も神経を使うところは、言

うまでもなく、上半身特に頭脳に近い程そうである。人間が目が醒め

ている間手足は休む事はあっても、頭脳を始め目、耳、鼻、口等は一

瞬の休みもない。としたら毒素集溜の場合もそうであって肩、頸、淋

巴腺、延髄、耳下腺付近は固より、頭脳が主となっている。このよう

に各部に集溜した毒素は、時日を経るに従って、漸次固結する。それ

がある限度に達するや、排除作用が発生する。ここに自然の恩恵を見

るのである。何となれば固結のため、血行が悪くなり、肩、頸が凝

り、頭痛、頭重、視力減退、耳の鈍聴、鼻詰まり、臭覚の鈍化、歯槽

膿漏、歯牙の劣弱、息切れ、手足の弛緩、腰痛、浮腫等々により、活

動力が減殺されるからで、それがため人間本来の使命が行われない事

になる。それで造物主は病気という結構な、浄化作用を作られたので

ある。


 右のごとく、毒素排除作用の苦痛が病気であるとしたら、病気こそ

浄血作用であり、健康上最も必要な物で、神の恩恵中最大な物という

べきである。ゆえにもし人類から、病気を取除いたとしたら、人間は

漸次弱って、ついには滅亡に到るかも知れないのである。ところが私

は、病無き世界を造るというのであるから矛盾するように思うであろ

うが、これは根本的に異(ちが)っている。というのは人間が無毒に

なれば浄化作用の必要がなくなるから、共に病気もなくなるのは判り

切った話である。この意味において私は、これから出来るだけ解り易

く徹底的に説いてみよう。

 話は戻るが、固結毒素の排除作用を、私は浄化作用と名付けたが、

まず初め寒冒に罹るや発熱が先駆となる。自然は固結毒素の排除を容

易ならしめんがため、熱で溶解させ液体化させる。この液毒は速やか

に肺に侵入するが、この作用は実に神秘であって、例えば吾らが浄霊

(これは療病法の名称)によって固結毒素を溶解するや、間髪を入れ

ず肺臓内に侵入する。その場合筋肉でも骨でも透過してしまうのであ

る。何より身体各局所にある固結毒素(以下毒結と称す)が、普通

一、二箇所くらいなら軽い症状で済むが、局所を増す毎に重くなる。

最初軽いと思った寒冒が漸次重くなるのは、その意味である。


 右のごとく、液毒は迅速に肺臓内に侵入し、稀薄な場合は痰となっ

て即時排泄されるが、濃度の場合は一時停滞し、咳というポンプ作用

を待って、間もなく気管を通じて外部へ排泄される。咳の後には必ず

痰が出るに見ても明らかであり、くしゃみの後に鼻汁が出るのも同様

の理である。また頭痛、咽喉の痛み、中耳炎、淋巴腺炎、手足の関節

や、鼠蹊(そけい)腺等の痛みはいずれもその部にあった毒結が溶解

し、出口を求めようとして動き始める。それが神経を刺戟するからで

ある。そうして液毒には濃い薄いが出来る。濃いのは喀痰、鼻汁、下

痢等になるが、極薄いのは水様となり、盗汗(ねあせ)や尿によって

排泄される。このように浄化作用なるものは、最も自然に合理的に行

われるもので、造物主の神技に感嘆せざるを得ないのである。一体造

物主すなわち神は、人間を造っておきながら、病気などという人間を

苦しめ、活動を阻害するようなものを与えられるはずはなく、常に健

康であらねばならないにかかわらず、人間が誤った考えで毒素を作

り、貯溜させるので、止むなく排除の必要が発る。それが病気である

とすれば、寒冒の場合も何らの療法もせず、自然に放任しておけば完

全に浄化が行われるから順調に治り、健康は増すのである。この理に

よって人間は出来るだけ風邪を引くようにすべきで、そうすれば結核

などという忌わしい病は跡を絶つのである。


 ところがどうした事か、いつの頃からか不思議にも、右の清浄作用

を逆解してしまった。そこで発病するや極力浄化を停めようとする。

何しろ浄化の苦痛を悪化の苦痛と間違えたのだから堪らない。そのた

め熱を恐れて下げようとする。解熱すれば毒結の溶解が停止されるか

ら咳嗽を初めあらゆる症状が軽減する。ちょうど病気が治るように見

えるのである。判り易く言えば、せっかく溶け始めた毒結を元通りに

固めようとする、その固め方法が医療なのである。氷冷、湿布、薬

剤、注射等すべてはそれであって、全部固まると同時に症状が消失す

るので、これで治ったと思って喜ぶが、何ぞ知らん、実はせっかく排

除をしようとするその手を抑えつけるようなもので、これは事実が証

明している。よく風邪が拗(こじ)れるというが、これは人体の方は

浄化しようとするとそれを止めようとするため、つまり浄化と非浄化

との摩擦となるから長引くのである。一旦風邪が治っても、暫くする

と必ず再発するのを見ても分るであろう。ゆえに結果から言えば、医

療とは病気を治す方法ではなく、治さないで延期させる方法という事

である。従って本当に治るという事は、毒素を外部へ排泄させ、体内

が清浄となって、病気の原因が皆無となる事である。だから真の医術

とは浄化が発った際、固結毒素をより速く溶解させ、より多く体外へ

排泄させる事で、それ以外真の療法はないのである。


 右の理に対し一つのたとえを書いてみよう。すなわち借金をしてい

る場合である。段々利息も溜り、期限が来て返済を迫られるので、一

時に払うのは辛いから、外から利子の金を借りて一時凌(しの)ぎを

する。するとまた期限が来たのでまた借金して一時免れをするという

工合で、元金の外に利子も段々増え、請求も巌しくなるが益々返金が

出来なくなる。そこで貸主は承知せず、差押え、または破産の訴えを

するが、返済が出来ないので破産する。つまり寒冒もこれと同様で、

最初の返済期が来た時、苦しくとも払ってしまえばそれで済むもの

を、辛いから借金を増しても一時免れをする。それが薬を主とした医

療である。従って引き延ばす毎に薬毒が殖え、ついに一時に請求され

る事となる、これが肺炎である。ところが貸主も相手の支払い能力を

考慮し、緩慢な請求をする、これが結核と思えばいいのである。

タグ:寒冒
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病気とは何ぞや・アメリカを救う

岡田茂吉111 019_0001.jpg病気とは何ぞや・アメリカを救う

『栄光』179号、昭和27(1952)年10月22日発行

アメリカを救う

 私は標題の著書を目下執筆中であるが、左の一文はその中の一項目

で、参考になると思うから、載せる事にした。

病気とは何ぞや

 序論にもある通り、現在米国における病気の漸増は何がためである

かを、その根本から説いてみるが、まず病気なるものの発生原因であ

るが、驚くなかれ病気というものは医療が作るのであって、特に薬剤

がその中心をなしているという事実である。つまり病気を治し、病人

を減らそうとするその方法が、反対に病気を治さないようにし増やし

ているという、到底信じられない程の迷盲である。そうしてこれは説

明の要のない程明らかであるにかかわらず、それに気が付かないので

あるから、全く二十世紀の謎といってもよかろう。それどころか益々

医学に信頼し、これを進歩させれば病気は解決出来るものと固く信じ

ているのである。ではそのような不可解な原因はどこにあるかという

と、それは医学の考え方が逆になっており、病気をもって悪い意味に

解釈しているからである。それをこれから徹底的に解説してみよう。


 本来人間なるものは、生まれながらにして例外なく先天性毒素と後

天性毒素とを保有している。先天性毒素とは無論親からの遺伝であ

り、後天性毒素とは生まれてから体内へ入れた薬毒である。というと

何人も意外に思うであろう。何となれば昔から薬は病気を治すもの、

健康を補うものとの観念が常識となっていて、良い薬さえ出来れば病

気は解決するものと信じ、それを医療の主眼としているからである。

特に米国は薬に最も重点を置き、新薬発見に非常な努力を払っている

のは誰も知る通りである。ゆえにもし薬で病気が治るとしたら、病気

は漸次減らなければならないはずであるのに、逆に益々増えるのはど

うした訳か、これ程理屈に合わない話はあるまい。元来薬というもの

は、地球上ただの一つもないのであって、ことごとく毒物であり毒だ

から効くのである。それはどういう意味かというと薬という毒の作用

によって病気症状が減るから治るように見えるので、実は治るのでは

ないのである。


 では薬がなぜ毒物であるかというと、そもそも人間が口へ入れるも

のとしては、造物主が人間を造ると同時に生を営むべく用意されたの

が食物である。そうして食物にも人間が食うべきものと、食うべから

ざるものとは自ら別けられている。すなわち食うべきものには味を含

ませ、人間には味覚を与えられているのであるから、人間は食いたい

ものを楽しんで食えば、それで栄養は充分摂れるので、これだけを考

えても造物主の周到なるは分るはずである。この意味において生きん

がために食物を摂るというよりも、食物を摂る事によって生きてゆけ

るので、ちょうど生殖と同様子を得る目的で男女が営むのではなく、

別の目的の営みで偶然子は授かるのであるから、神秘極まるものであ

る。

 右のごとく人間の体内機能は、食物として定められた物以外の異物

は完全に処理出来ないようになっているので、薬は異物である以上含

まれている栄養分だけは吸収されるが、他は体内に残ってしまう。こ

れが薬毒であって、しかも厄介な事にはこれが各局部に集溜し、時の

経つにつれて固結してしまう。その集溜個所としては神経を使うとこ

ろに限られている。神経を使うところといえば、もちろん上半身特に

首から上で、頭脳を中心とし眼、耳、鼻、口等であるから、そこを目

掛けて毒素は集中せんとし、一旦頸の周りに固結する。いかなる人で

も頸の周り、肩の辺に必ず固結をみるであろう。これが凝りであっ

て、ある程度に達するや自然排泄作用すなわち浄化作用が発生する。

その場合発熱によって毒結は溶けて液体となり、咳、痰、鼻汁、汗、

下痢、熱尿等になって排除されようとする。これを名付けて感冒とい

うのである。

 ゆえに感冒とは毒素排除の過程であるから、少し苦しいが我慢して

自然に委せておけば順調に排泄され、体内は清浄化し治るという実に

結構なものであるから、感冒とは全く簡易な生理作用で、神の摂理で

あるから、大いに感謝すべきであるにかかわらず、それを知らない人

間は、この浄化の苦痛を反って悪い意味に解釈し、これを止めるべく

考え出したものが医療であるから、いかに間違っているかが分るであ

ろう。そうしてこの浄化作用なるものは、人体の活力が旺盛であれば

ある程発り易いので、これを停めるには人体の活力を弱らせるに限

る。そこで薬と称する毒を用いたのである。昔から草根木皮、鉱物、

動物の臓器等から探り出し、煎じたり、粉末にしたり、抽出したりし

て水薬、丸薬、塗布薬、注射薬等色々な形にして浄化停止に応用した

のである。それには毒が強いと生命に関わるから、微弱にして、少し

ずつ服ませる。このため一日何回などと分量を決めたので、よく効く

薬とは中毒を起さない程度に毒を強めたものである。


 このように薬毒をもって溶解排除せんとする毒素を固めて来たの

で、今日の人間がいかに有毒者であり、病気が起り易くなっているか

は、近来予防衛生などとやかましく言ったり、感冒を恐れるのもその

ためである。また人間の寿命にしても六十余歳となったといって喜ん

でいるが、これも大変な誤りである。というのは人間病さえなければ

百歳以上は楽に生きられるのに、百歳以下で死ぬのは病による不自然

死のためで、無病となれば自然死となる以上、長生するのは当然であ

る。右のごとく医療とは病を治すものではなく一時的苦痛緩和手段

で、そのための絶対安静、湿布、塗布薬、氷冷、電気、光線療法等々

すべての療法は固め手段ならざるはないのである。その中に一、二異

(ちが)うのは灸点と温熱方法であるが、これも一時的熱の刺戟によ

って、その個所へ毒素を誘導させるので、楽にはなるが時間が経てば

元通りになるから何にもならないし、またラジウム放射で癌を破壊す

る方法もあるが、これも癌だけの破壊なら結構だが、実は組織をも破

壊してしまうから、差引プラスよりマイナスの方が多い訳である。


 以上のごとく現在までの療法という療法は、徹頭徹尾固め方法であ

って、治す方法とは毒素を溶かして排除させる以外決してないのであ

る。何よりも医師は治すとは言わない。固めるというにみて明らかで

ある。しかも固め方法の内最も有効なものが薬であり、その薬が病原

を作るのであるから、医療を受ける程余病が発り易く悪化するのは当

然である。その結果ついに生命の危険にまで及ぶのである。それにつ

いてこういう事がある。治そうとして熱心に高貴薬など用いる患者程

成績が悪く、その反対にどうでもいいと思う患者程治りがいいという

話は、医師からよく聞くところである。また衛生に注意する者程弱

く、無頓着の者程健康である事や、医師の家族や病院の看護婦などが

多病であるのもよく聞くところである。面白い事には稀な健康者、長

寿者に訊いてみると、自分は病気した事がないから、医師や薬の厄介

になった事はないなどというが、吾々からみればそれだから健康であ

り、健康だからそうであるので、この点大いに味わうべきである。
タグ:病気 健康
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2008年06月30日

病気と苦痛

人間一度病気に罹るとする。病気に罹ったと言う意識は苦痛である。言わば病気即苦痛である。然し苦痛にも色々の種類がある。これまでの医学は病気と苦痛を同じものにみていた。それが為苦痛を緩和すればそれだけ病気も緩和すると思っていた。此の考え方が根本的に間違っている。それを説明してみよう。茲で最も多い感冒を取上げてみるが、先ず熱が出るとする。頭が痛いから氷で冷すや幾分楽にはなるが、それは病気が軽減したのではない、苦痛が軽減したのである。これが根本的誤謬である。それは病気と苦痛とは別々のものであって、実は苦痛を緩和すればする程病気は悪化するのである。此の説を見た現代人は余りの以外に唖然とするであろう。然し、これこそ絶対動かす事の出来ない真理であって、これを基本としなければ真の医学は生れないのである。以下解くところによって何人と雖も衷心から納得して一言の否を唱うる事も不可能であろう。昔の人が、自惚れと瘡気のない人はない、と言ったが誠に面白い比喩である。実際どんな人間でも先天的毒素を保有していないものは一人もないと言っていい。而も毒素保有量は予想外に多いものである。此毒素とは薬剤の変化したもので我等は薬毒と云う。此薬毒に就ては別の項目に詳説するが、兎も角右の保有毒素は新陳代謝の活動によって、体内の各所に集溜する。そうして時日の経過に従がって漸次固まってしまう。毒素の集溜の個所としては神経を使う局所であるから、何と云っても上半身、特に首から上である。頭脳を始め、目、鼻、口、耳、咽喉部等々で、これは目の醒めている間殆ど休む事はない。特に最も神経を使う処は頭脳であろう。従而、全身の毒素は頭脳に向って不断に集溜すべく動いており、首の周囲に最も集溜するのである。それは、目、鼻、口、耳などの神経も実はその根源が頭脳にあるからである。殆どの人間が首の周りにグリグリや塊りが出来たり肩が凝ったりするのは皆その為である。処が右の如く漸次固まった毒素が頂点に達するやどうしても健康に支障を及ぼすので、これの排除作用が始まる、これを浄化作用とも言う。造物主は浄化作用に当って巧妙を極める。それは先ず最初発熱する。此熱で塊りが溶けるのである。即ち溶けて液体となった毒素は、一瞬にして肺臓内に入るや、間髪を容れず咽喉を通って外部へ排泄する。これが喀痰である。喀痰を排泄するポンプ作用が咳と思えばいい。但し後頭部から延髄部付近の毒素は鼻汁となって鼻口から出る。そのポンプ作用がくしゃみである。咳の後には痰が出、くしゃみの後には鼻汁が出るにみても明らかである。又、首から下の毒素は液体となって排泄される、それが寝汗である。又頭痛とは液体化した同素が何れかの口を求めて排泄されようとし、神経を刺激する、それが痛みである。その毒素は肺臓目がけて流入し、痰となって出るのである。何よりも吾々が頭脳を浄霊するや、瞬時に咳と痰が出、頭痛は減るのである。又節々の痛みとは、人間は常に手足を屈折するので、間接へ固まり、それの浄化が痛みである。
 右の如く、人間の病気とは、溜った汚物の掃除である事を説いたのである。従而、実は感冒程有難いものはない。という事は、病気程有難いものはない。という事は、病気程有難いとも言えよう。此理によって健康不良の原因は汚物の溜った為で、病気という清掃作用によって浄められ健康を回復するのである。従而、病気の苦痛は有難い苦痛なので、言わば清掃作用であるから、此苦痛を手をつけずにそのままにしておけば甚だしい苦痛はないのである。処が、医学は病気の苦痛を悪い意味に解釈し、止めようとする。言い換えれば、自然に出るべきものを出さないようにする為、自然と人力との衝突が起り、苦痛が増大する。此自然抑圧法を治病の方法と錯覚し、進歩し来たったのが今日の医学であるから、如何に誤っていたかが知らるるであろう。以上の如く、毒素が局所に固まるや浄化作用が起ると説明したが、これには条件を必要する。その条件とは、毒素を排泄する活動力、即ち浄化力である。此浄化力こそ或程度の健康体、即ち新陳代謝が旺盛でなくてはならない。之を逆に解した医学は浄化発生を停止させようとする。それには新陳代謝を弱らせなければならない。それは健康を弱らす事である。その方法として唯一のものは薬剤である。元来薬剤とは、実を言えば毒物である。毒だから効くのである。と云うと可笑しいが、毒を服めば身体が弱る。弱っただけは浄化も弱るから、それ丈は苦痛が減る。それを錯覚して薬で病気が治るように思ったのが既成医学であった。薬剤に限らず、凡ゆる療法も同一で、熱があれば氷で冷し、氷で冷して折角溶けかかった毒素を元通り固めようとしたり、絶対安静とは運動を止めるから弱らすには何よりである。病人でなくとも健康体でも数ヶ月も絶対安静すれば胃は弱り、食欲は減退し、手肢は使わないから痩衰え、大病人になるのは必然である。いわんや病人においてをやである。又湿布であるが、之も弱体法である。人体は口からの呼吸以外全身の皮膚面からも毛細管を通じて呼吸をしている。それを止めてしまうのである。何よりも湿布をすれば熱は減り、その部の苦痛は軽減するという事は湿布面だけは浄化が停止されるからである。
                     年代不詳
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2008年06月29日

くる天

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